木越城

郡上八幡城の沿革

郡上八幡城の沿革

  • 承久3年(1221)、下総国香取郡東庄、千葉市の支流東胤行(とうのたねゆき)が山田庄を賜り郡上東家の初代となった。7代益之は応永16年(1409)、赤谷山に城を築いた。
  • 応仁2年(1468)、9代城主常縁(つねより)は東征の留守の間に土岐家の守護代斉藤妙椿(みょうちん)に篠脇城(大和町牧)と所領を奪われた。常縁は 和歌を詠み、はかない世の移り変わりを悲しんだ。この歌に深く心を動かされた妙椿は更に和歌10首を請い返歌とともに所領を返した。(文明元年 [1469])
  • 文明3年(1471)飯尾宗祇が郡上に入り八幡の宮ヶ瀬河畔に住み常縁より古今伝授を受ける。名水百選宗祇水
  • 天分年間(1532~54)、13代常慶は東殿山城(八幡町旭)を築いた。
  • 弘治3年(1557)、山内一豊の妻となる千代が、後の初代城主遠藤盛数(もりかず)の娘として生まれる。

  • 永禄2年(1559)、常慶の子常堯(つねたか)により、遠藤胤縁(たねより)が殺害された。弟盛数は弔い合戦の名目で東殿山の常慶を攻撃して滅ぼし、八幡山に城を築いて移った。これで承久以来12代340年も続いた東氏は滅びた。盛数は郡上一円を領し、胤縁の子胤俊に木越城を継がせ、所領のうち半分を分け与えた。
  • 永禄5年10月14日(1562)、盛数が死亡し、その子三郎四郎慶隆が13歳で2代目を継いだ。永禄6年(1563)、慶隆を守るため母は関城主永井隼人と再婚し、千代とともに関に移る。
  • 永禄7年春(1564)、慶隆が井之口(岐阜市)に滞在中、胤俊は不意を襲って八幡城を奪い、慶隆とその弟慶胤へ叛旗をひるがえした。慶隆は急を知り帰幡、関城主永井隼人(慶隆の母の再縁先)の助けで八幡城を奪い返した。敗軍の将となった胤俊は木越城をその弟胤基に譲ると剃髪して出家し八幡城下の宗祇水のそばに草庵を結んで棲んだ。のち慶隆は織田信長配下となり姉川の合戦をはじめ各地に転戦して戦功をあげた。
  • 天正16年(1588)、慶隆は岐阜城主織田信孝に通じていたので豊臣秀吉に疎まれ加茂郡小原犬地に移され、7千5百石を領有し、八幡城には安八郡曽根から稲葉一鉄の子稲葉右京亮貞通が4万石で封ぜられた。貞通は八幡城の大改築を行い旧態を一変させた。古絵図
  • 慶長5年(1600)、慶隆は家康に願い出て飛騨の金森可重の援軍を受け9月1日八幡城の稲葉通孝を攻めた。可重は小野山に陣取り、慶隆は大宮山王(八幡町日吉神社)に陣を構えて両面から城を攻撃、激戦は終日つづいた。
    勝敗は決まらず、翌2日、ついに通孝から和睦の申し出があって慶隆は大宮の陣をとき、愛宕山の本陣へ兵をひいた。そのころ犬山城にあった稲葉貞通は八幡城が包囲されたとの報をうけ、急遽兵をまとめて9月3日の明け方慶隆の愛宕山本陣を奇襲した。慶隆は小野山の可重の陣に危うく逃れ、貞通は凱歌をあげて八幡城にはいった。慶隆、可重の軍は小野山から八幡城を攻め、搦手(からめて)で大激戦の末についに和睦した。
  • 慶長5年(1600)、関ケ原合戦に慶隆は遊軍として参加し、11月には慶隆は再び八幡城主として2万7千石を領した。稲葉貞通は豊後国(大分県)臼杵へ5万石で移された。
  • 正保3年(1646)12月、遠藤常友(つねとも)が3代目の城主となり、寛文7年(1607)、幕府の許可をうけて八幡城の大修築をなし、近郷の寺院を城下に集め「8家9宗」を形づくるなど城下を拡張整備し「城主格」から「城主」の称をゆるされた。
  • 元禄5年(1692)3月、5代目城主常久は7歳で死亡し、幕府の決定によって遠藤家の所領は取りつぶしとなったが慶隆の功績が認められ、大垣藩の一門戸田氏成の子、数馬胤親に遠藤家を継がせて常陸国(茨城県)下野国(栃木県)で1万石を与えられた。
  • 元禄5年11月常陸国笠間城主井上中務少輔正任(まさとう)が5万石で八幡城主となった。
  • 元禄10年(1697)、2代城主正岑(まさみね)は丹波国(京都府)亀山に移され、同年6月11日羽州(山形県)上の山から元高山城主金森出雲守頼旹(よりとき)が3万8千石で八幡城主となった。郡上八幡城遠景
  • 元文元年(1736)、頼旹が死し、嫡孫の頼錦(よりかね)が2代目城主を継いだ。頼錦は学識にすぐれ文学書画をよくし、先人の遺業を顕彰するなど、文化的な城主であったが、晩年幕府の奏者役という重職から出費が多くなり国家老の年貢増徴の苦肉の策が嵩じ、ついに宝暦4年(1754)、領内の農民が蹶起して世に云う宝暦騒動(郡上一揆)が起き、農民の代表が出府して老中酒井忠寄に駕籠訴を行ない、続いて同8年(1758)4月2日、将軍徳川家重に箱訴をして窮状を訴えたため、頼錦は治世怠惰の責任を問われ金森家は断絶となった。
  • 宝暦8年(1758)、丹後国(京都府)宮津の城主青山大和守大膳亮幸道(よしみち)が郡上へ国替を命ぜられた。同9年(1759)6月青山幸道が八幡城に赴任して4万8千石の新しい統治者となった。以来青山氏は郡上藩の領主として7代111年間続き、明治2年(1869)、青山幸宜(ゆきよし)が版籍を朝廷に返して郡上藩知事となった。

 

  • 昭和8年(1933)10月、八幡山天守台跡に天守閣・隅櫓・高塀を再建した。
  • 昭和30年(1955)8月30日、岐阜県史跡(八幡城跡)に指定される。
  • 昭和57年(1982)11月、八幡城石垣改修始まる。
  • 昭和58年(1983)11月5日、郡上八幡城再建50周年式典挙行。
  • 昭和62年(1987)2月、八幡城史跡保存会発足。
  • 同年6月、城郭の大改修。(完成昭和63年7月)
  • 同年9月10日、八幡町(現郡上市)重要文化財(八幡城)指定。
  • 平成2年(1990)6月、高塀・隅櫓の改修。(完成平成3年5月)
  • 平成3年(1991)4月、八幡城門扉取付工事始まる。(完成平成3年6月)
  • 平成5年(1993)7月~10月、郡上八幡城再建60周年記念イベント開催。
  • 平成25年(2013)5月~11月、郡上八幡城再建80周年記念イベント開催。

 

郡上八幡城歴代城主

  • 遠藤氏 遠藤氏家紋
  • 稲葉氏 稲葉氏家紋
  • 井上氏 井上氏家紋
  • 金森氏 金森氏家紋
  • 青山氏 青山氏家紋

郡上八幡城は5氏19代にわたり治められました。

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