山内一豊の妻「千代」は郡上は生まれだった

山内一豊の妻「千代」は、弘治2年(1556)、初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生まれました。千代が3歳のころ、盛数は病死、母の再婚、義父の敗北、流浪。波乱の時がはじまります。やがて千代は、縁あって尾張の一豊に嫁ぎました。一豊は信長、秀吉、家康に仕え、最後には土佐24万石の大名に出世しました。その影には、千代の内助の功があったといわれています。信長の「馬ぞろえ」や関ヶ原前夜の「傘の緒の密書」の逸話は有名です。

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賢夫人として名高い山内一豊の妻千代については近江国坂田郡、若宮喜助の娘という説が定説とされています。しかし、郡上では古くから初代八幡城主・遠藤盛数の娘と伝えられていました。郡上には東家系図・遠藤家 系図などゆかりの寺院・家に伝わりその中には明らかに遠藤盛数の娘・慶隆の妹が山内対馬守(一豊)室(奥様のこと)と記されていました。

千代の母・友順尼は東家十三代常慶の娘であり、夫・盛数死去の後、関城主永井隼人氏と再婚、不幸にも信長により関落城の後、近江を流浪したのです。友順尼は、生家より伝えられていた東常縁直筆の古今和歌集を守り持ち続けていました。娘・千代が一豊と結婚した頃、友順尼は乗性寺(現美並町)で余生を送りました。一方、千代の兄・遠藤慶隆や一豊たちは小牧・長久手の戦いに参加し、秀吉の越中攻めと同じ陣営で生死を共にしています。最近陣立表の現物が発見され、慶隆と一豊の親戚関係が証拠立てられたのです。さらに、一豊の妻とされていた近江の若宮マツは、一豊の家臣である五藤為重に嫁いでいたことが古文書や五藤家の墓によって明らかにされました。千代は京都において元和三年(1617)、死去しましたが、友順尼により千代に渡った篠脇城主東常縁直筆の古今和歌集などが遺品として山内家へ渡されたのです。その後、古今和歌集は、徳川幕府へ献上されたことが山内家家史にも徳川幕府の記録にもはっきり記されています。以上のような調査史料から、千代が古今伝授の東家の血筋を引く女性であったということをより鮮明にしています。