郡上八幡城の歴代城主
郡上八幡城は5氏19代にわたり治められました。
遠藤氏
永禄2年(1559)、盛数が東氏を滅ぼし、八幡城の基を築きました。2代慶隆のとき、秀吉の不興を買い、加茂郡白川1万3千石に左遷されましたが、八幡城の戦いの後、郡上に復帰しました。常友の時、城下町が整備されました。その後、常春が11歳で家督を継ぎましたが、23歳で病死し、常久が4歳で藩主となりました。常久はお家騒動のなか7歳で夭折し、郡上領2万4千石は幕府に没収されました。しかし、幕府は、遠藤家を惜しみ、大垣藩戸田氏の胤親を養子に1万石を与え転封させ、近江の国三上遠藤として幕末まで続きました。
- 初代
- 遠藤 盛数(えんどう もりかず)
- 2代・4代
- 遠藤 慶隆(えんどう よしたか)
- 5代
- 遠藤 慶利(えんどう よしとし)
- 6代
- 遠藤 常友(えんどう つねとも)
- 7代
- 遠藤 常春(えんどう つねはる)
- 8代
- 遠藤 常久(えんどう つねひさ)
稲葉氏
稲葉一鉄は、美濃斉藤家の重臣で、美濃3人衆に数えられ、その後、織田信長の下で活躍、勇将の名をはせました。貞通は、その稲葉一鉄の嫡男で、遠藤慶隆の転封後、美濃の国曽根城から八幡城に入部しました。貞通の時代に、八幡城の全面改修を行い、天守台を建て、現在の城の原型を整えたと伝えられています。関ヶ原の戦いの直前、西軍に属していましたが、八幡城の戦いの後、遠藤氏と和睦し、東軍として参戦しました。その後、豊後の国(大分県)臼杵5万石の城主に移封され、幕末まで至りました。
- 3代
- 稲葉 貞通(いなば さだみち)
井上氏
元禄5年(1692)遠藤氏移封の後、井上正任が常陸の国(茨城県)笠間城主から郡上城主として入部しました。正任は入部後1年をたたず、二男正岑が家督を継ぎました。
井上氏は郡上在住5年で、丹波の国(京都府)亀山城主に移封されました。
正岑は郡上移封後、若年寄、老中と権力の座にのぼりつめました。とくに、8代将軍吉宗の就任には大きな役割を果たしました。
- 9代
- 井上 正任(いのうえ まさとう)
- 10代
- 井上 正岑(いのうえ まさみね)
金森氏
金森家は、織田信長、豊臣秀吉に従い軍功をあげ、代々飛騨の国を領有した名家です。頼旹(よりとき)は、4歳で家督を継ぎましたが、元禄5年(1692)、出羽の国(山形県)上ノ山に転封され、5年を経ずして郡上藩に転封されました。頼旹の政治姿勢は清貧で、領民に寛大であったと伝えられています。頼錦は、頼旹の孫にあたり、元文元年(1736)、23歳で家督を継ぎました。頼錦は、風雅を好み温和な性格で詩歌に親しむ文化人でした。しかし、 在任中百姓一揆(宝暦騒動)が起こり、宝暦8年(1758)お家断絶となりました。
- 11代
- 金森 頼旹(かなもり よりとき)
- 12代
- 金森 頼錦(かなもり よりかね)
青山氏
郡上の青山氏は譜代大名で、丹波篠山藩を本家とする青山氏の支族です。宝暦8年(1758)、幸道の時、丹後(京都府)宮津藩主から郡上藩主となりました。以来7代、若年寄や寺社奉行など幕府の重職を担い明治維新を迎えました。東京の青山には、青山氏の下屋敷がありました。また、凌霜隊の戦いなどが有名な史実として残されています。
- 13代
- 青山 幸道(あおやま よしみち)
- 14代
- 青山 幸完(あおやま よしさだ)
- 15代
- 青山 幸孝(あおやま ゆきたか)
- 16代
- 青山 幸寛(あおやま ゆきひろ)
- 17代
- 青山 幸礼(あおやま ゆきのり)
- 18代
- 青山 幸哉(あおやま ゆきしげ)
- 19代
- 青山 幸宜(あおやま ゆきよし)